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京都岡崎、琵琶湖疏水 [京都]

京都市美術館と疏水S.jpg
京都岡崎、琵琶湖疏水

 第二次世界大戦で戦災にあわなかった京都では、「前の戦争で家を焼かれた」といえば、その戦争は「応仁の乱」を指す。岡崎は平安時代後期には白河北殿を初めとする御所や寺院が立ち並び院政の中枢部として大いに栄えた。しかし応仁の乱では戦場となり、栄華を誇った白河北殿や六勝寺※などの堂宇もことごとく焼け落ちその後再興されることはなかった。
 明治維新を迎えると京都は、東京遷都などにより人口が流出し産業が衰退して活力が失われた。槇村正直、山本覚馬、北垣国道等先覚者達は博覧会開催、琵琶湖疏水建設などを復興・勧業政策として積極的に推進した。内国勧業博覧会はここ岡崎で毎年開催されるようになり、琵琶湖疏水は田辺朔郎の設計により4年8カ月で完成。同時に蹴上発電所が建設されて日本初となる路面電車の営業運転が京都で始まることとなる。
※法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺(地名が残っている)


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京都長岡八条ヶ池 [京都]

長岡天神S3.jpg

京都長岡八条ヶ池と古今伝授

 細川藤孝(幽斎)は丹後田辺城(舞鶴)で西軍1万5千の兵に包囲されていた。藤孝は武人でありまた三条西実枝から「古今伝授」を受けた歌道の大家で弟子も多かった。「藤孝危うし」の報が京都に伝わると、弟子の八条宮は二度にわたって和議を勧めたが藤孝はこれを謝絶して籠城。藤孝討死とともに古今伝授の断絶を憂えた八条宮は、兄の後陽成天皇に奏請し、天皇は勅使を派遣した。藤孝はこれを受けて開城。関ヶ原の戦いのわずか二日前のことだ。古今伝授は藤孝から八条宮、八条宮から後水尾天皇と相伝されたが、後の俳諧隆盛と国学者の研究進展により次第に影響力を失っていった。
 長岡から桂にかけての一帯は山城西岡と呼ばれ、信長の時代には細川家の、藤孝が丹後に移ると八条宮の所領となった。八条宮は造庭に秀で後年桂離宮を造営し、長岡天満宮では池を築造した。現在の八条ヶ池である。初夏には中堤の参道両側は霧島つつじに彩られ、途中の池を跨ぐ石の太鼓橋は加賀前田家の寄進と伝えられる。


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